今期の朝ドラでは、ここのところ戦後しばらくしてからの日本のジャズシーンが描かれています。劇中の音楽も、当時すでに活躍していた日本のジャズ界のレジェンド、アルトサックスの渡辺貞夫(88)やクラリネットの北村英治(92)が演奏しています。
あの頃の日本のジャズの黎明期を語るとき、忘れてはいけないテナーマンがいます。その人の名は宮沢昭。終戦後の米軍クラブなどで活躍し、その後の日本のジャズの誕生に貢献した偉大なジャズサックス、フルート奏者です。
宮沢昭は1927年12月6日に長野県松本市に生まれ、1944年に陸軍戸山学校軍楽隊にクラリネットで入隊します。復員後テナーサックスに持ち替え、米軍クラブを回るバンドのメンバーとして演奏活動をおこないました。
米軍クラブでの演奏は、東京駅八重洲口に楽器を持って立っていると、トラックとかジープが来て、「ピアノ、はいサックスはいるか?ベースはいるか?」という即席バンドで雇われ、どこに連れていかれるかも分らなかったそうです。それでもバンドやメンバーにはABCのランク付けがあり、宮沢のバンドは特Aで、将校クラブで演奏しギャラも破格だったそうです。正にドサクサの時代です。
当時ピアニストの穐吉敏子が結成したコージーカルテットとも数多く共演し、穐吉からバンドを引き継いだ渡辺貞夫と双頭サックスで、穐吉敏子(p)、原田長政/栗田八郎(b)、富樫雅彦/白木秀雄/猪俣タケシ(ds)とともにライブアルバム、”Toshiko Meets Her Old Pals(1961)”も録音しています。
1962年に録音された『 山女魚(やまめ)』は、宮沢の代表作のひとつとして高く評価されています。渓流釣りを好む宮沢らしく、アルバムタイトル曲のほか、“フライ・キャスティング”というオリジナルも収録されています。
佐藤允彦(p)、原田政長(b)、猪俣猛(ds)のトリオをバックにしたカルテット編成の演奏と、渡米寸前の渡辺貞夫(as)、仲野彰(tp)らを迎えた10人編成のバンドにより、緊張感あふれる演奏が繰り広げられています。八木正生(pf, arr)がアレンジャーとして腕を振るっており、60年代初頭の日本ジャズの最も先進的なミュージシャンが集合した、貴重なセッションの記録となっています。
60年代に多くの傑作アルバムを残しますが、70年代はおもに越路吹雪のバックバンドとスタジオでの活動をメインとするようになります。宮沢は越路吹雪のバックを都合13年間勤めました。ジャズからシャンソンに逃げたなどと噂されていたこともあるようですが、真相は異なり、越路を歌手としてを芯から尊敬していたゆえのサポート活動でした。
また同時期に多くのアーティストのアルバムの制作にも参加しています。荒井由実(現:松任谷由実)のファーストアルバム、『ひこうき雲(1973)』に収録された「曇り空」では美しい音色のフルートを演奏しています(ちなみに、「きっといえる」のファンキーなテナーは、同時代のテナーレジェンド、西條孝之助の演奏です)。
81年『マイ・ピッコロ(1981)』でジャズ界に復帰し、以降自己のグループを中心に活躍しましたが、2000年7月6日急性肺炎のため72歳で死去しました。
宮沢のサックスはセルマーMark VIのテナーに、マウスピースはオットーリンクのハードラバーとメタルを使用していたようです。自分でマウスピースの改造もしており、樫の木の棒でバッフルやボアを擦り、磨き上げて、マウスピースをチューニングしていました。
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