バリトンサックスの魅力をジャズの世界で広めたのは、ジェリー・マリガンそのひとである、と断言してもあまり反論は無いでしよう。しかしそのマリガンのみならず、バリトンサックス奏者のほとんどが憧れ、尊敬した、ジャズバリトンサックスの奏法とサウンドの基本を確立したと言われているのが、マリガンより17歳年上のハリー・カーネイです。そう、あの、エリントン楽団の看板バリトン奏者です。
ハリーは1910年マサチューセッツ州ボストンに生まれました。奇遇にも、将来同じエリントン楽団で席を並べる事になる、4歳年上の名アルト奏者、ジョニー・ホッジスとは幼馴染として幼少期を過ごしています。各種の楽器を経て、14歳でアルトサックスを学び、やがてボストン市内のクラブにて、プロデビューすることになります。
1927年に17歳でエリントン楽団へ招かれ、同年末からエリントン楽団はニューヨークのコットン・クラブで活動し始めました。当初はオットー・ハードウィックがバリトンサックスを担当し、ハリーはクラリネット、アルト、ソプラノ・サックスを担当していました。
1928年、ジョニー・ホッジスをリードアルトに迎える等、エリントン楽団が大幅なメンバー変更を敢行したとき、ハリーはバリトンサックスを主に演奏するようになりました。彼はすぐにバリトン奏者としての地位を確立し、エリントン楽団のサウンドを支えることとなります。
この頃のメンバーの多くが長きに渡り定着し、エリントンサウンドを実現するーつの音楽集団、「エリントニアン」としてその名を世界に知らしめていきます。それ故エリントン楽団の編曲は「当て書き」といって、個々のメンバーの顔を念頭においてアレンジされていました。なので、エリントンはメンバーが変わるとアレンジそのものを書き直し、パート譜面も、「1stアルトサックス」とか「5th バリトンサックス」とかではなく、「ジョニー・ホッジス」や「ハリー・カーネイ」と個人名で書いてあったということです。
1974年にエリントンがガンによって75歳で死去した際、ハリーは「デュークがいなけりゃ生きる意味がない」と発言していたそうです。エリントンの死去から4か月後、1974年10月8日に、ハリーはニューヨークで亡くなり、47年の長きに渡る「エリントニアン」人生に幕を下ろしました。
エリントン楽団のサックスセクションは、音質を揃えるために全員がビッシャーのサックスに統一していたのは有名な話しですが、ハリーはその他にも、C. G.コーンの楽器を使っていたようです。
マウスピースはニューヨークのウッドウィンド社(Woodwind Company)の”Sparkle-Aire” G5です。開きの広いマウスピースでビッシャーもコーンも、ブリブリと鳴らしていました。
ハリーはバリトンサックス奏者にしては珍しく、早くから循環呼吸奏法もマスターしており、ブレスレスの長いフレーズで聴衆を圧倒したことも数多くあります。ハリーのバリトンサウンドは、いまだに多くのバリトン奏者の手本となっています。
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