レアンドロ・ホセ・“ガトー”・バルビエリ、そう、大きなつばの帽子がトレードマークのスタイリッシュなテナーマン、ガトー・バルビエリは1932年11月28日、アルゼンチンの中部ロサリオという街で生まれました。12歳の時、チャーリー・パーカーの『ナウ・ザ・タイム』に感銘を受けてクラリネットを始めたそうです。
1947年15歳でブエノスアイレスに転居し、アルトサックスを始めました。そして1953 年にアルゼンチン人のピアノ奏者、ラロ・シフリンのオーケストラに加入しています。シフリンの下で活動していた頃から、期待の若手ジャズ・ミュージシャンとして頭角を現していきます。
ニックネームの “ガトー”は、夜な夜なブエノスアイレスのジャズ・クラブを、サックスを片手に神出鬼没に渡り歩いていた彼を、仲間のミュージシャンが、「猫(ガトー)の様だ」と言った事によるそうです。
1950年代後半にはメイン楽器をテナーサックスに変え、自己のグループを率いての活動を始めました。イタリア出身の女性ミシェルと結婚し、1962年には夫人の故郷イタリアに渡り、ローマを活動の拠点としました。
アルゼンチン時代は、ソニー・ロリンズ的なハードバップスタイルでしたが、イタリアではジョン・コルトレーンに触発された、先鋭的なモード奏法が演奏のスタイルとなっていきます。
そしてフリージャズの先駆者、 ドン・チェリーと出会い、ガトーはフリージャズに傾倒していきます。1965 年にはニューョークに移住し、ドン・チェリーのバンドで数年間活動しました。これがガトーの「初期/フリージャズ時代」です。
1969年から1973年にかけて録音された一連のリーダー作品、『Third Wor1d』(1969)、『Fenix』(1971)、『El Pampe1o』(1971)、『Under Fire』(1971)、『Bolivia』(1973)あたりから、ガトーの民族回帰の傾向が現れてきます。
共演のラニー・リストン・スミス(p)、チャーリー・ヘイデン(b)、スタンレー・クラーク(g)、レニー・ホワイト(ds)等のアメリカ人ミュージシャンらとともに、南米のフォークロアとジャズロックが融合した彼自身の世界を作り出していきます。
1972年、ガトーが音楽を担当した作品、ベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラストタンゴ・イン・パリ』(マーロン・ブランド/マリア・シュナイダー主演)が大ヒットし、ガトーは一躍時の人となります。
大胆な性描写で映画界を震憾させたこの映画の中で、ガトーのテナーは全編に渡ってパリの黄昏を見事に彩っています。そしてエド・ミシェルのプロデュースによりインパルスレコードで発表した、『Chapter』 四部作」はまさにガトーの全盛期を捉えた金字塔となります。
1976年にはA&Mレコードと契約し、ロック的な要素の強いポップなものに変化していき、1976年の『カリエンテ!』はラテンフュージョンの歴史に残る名盤となっています。
ガトー・バルビエリといったら、ベルグラーセンのメタルマウスピースが有名です。イギリスの老舗で作られたステンレススチール製の独特なマウスピースが、彼の伸びやかで、どこか野性的なサウンドを作り出していました。
後にデュコフ、ガーデラ等に受け継がれるフュージョン用メタルマウスピースの系譜は、このベルグラーセンから始まったのかもしれません。
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