ある年代のジャズテナーサックス奏者は、目指すサックス奏者にこの人の名をあげないと、奇人呼ばわりされることがありました。ジャズテナーの聖人、ジョン・コルトレーンはそれほど「神格化」されていました。1955年、マイルス・ディヴィスのグループに加入し、世に名前を知られるようになってから、1967年に肝臓がんで亡くなるまで、まさにジャズ界を駆け抜けていったコルトレーンに関しては、短い期間だったにもかかわらず、多くの名録音とともに、多くの資料や逸話も残っています。「聖者」、ジョン・コルトレーンを振り返ってみましょう。
多くの資料で、「聖者ジョン・コルトレーン」 という呼び方が好んで使われています。これは1966年の来日ツアーの際のインタビューで、「10年後、あるいは20年後に人間としてどう在りたいか?」という難解な質間に対し、「私は聖者になりたい」と答えたというエピソードから、このような呼称が定着してしまったようです。この短い引用を聞くと、イメージ通りにコルトレーンが、きっぱりと真顔で口にしたように感じます。が、現実はそうでもなかったようです。インタビューの録音では、この答えの後、コルトレーンはくすくす笑い、続いてコルトレーンの左隣にいた妻のアリスも笑いました。コルトレーンの真意を測りかねた通訳は「聖者になりたいですって?」と聞き返しましたが、これに対してコルトレーンとアリスからさらなる笑いが起こり、コルトレーンは「その通り」と答えた、とのことです。つまり、「私は聖者になりたい」は、ほとんど冗談だったと推測されます。しかし後の1957年春に、長年の中毒からヘロインを断った際、彼は「音楽によって人々を幸福にする」という願望を神に願い、誓ったそうです。「聖者」のような崇高な存在を目指していたのではなく、「聖者のように」人々を幸せに導ける音楽家になりたかったのは冗談ではなかったようです。
10年という短い間に、コルトレーンは多くの変化を遂げました。常にフォルテッシモで速いパッセージばかり吹き続ける、「シーツ・オブ・サウンド」の時代。コルトレーン最大のヒット曲となった「マイ・フェイヴァリット・シングス」でのソプラノ・サックスは、コルトレーンの定型パターンとなりました。アルバム「至上の愛」では、コルトレーンのモー ド・ジャズは極限にまで達し、調性にとらわれず、あらゆるスケールを縦横無尽に使うスタイルを実現しています。そしてアルバム「アセンション」では完全にフリー・ジャズの演奏スタイルとなりました。そんな大きな変化の中で、コルトレーンは常に楽器に対しても、音楽に対しても「生真面目」を貫き通しました。人一倍練習をし、楽器を研究し、音楽理論を突き詰める、という一連の姿勢は他のミュージシャンを圧倒していました。マウスピースをいじり過ぎて、ダメにしてしまったことも頻繁だったようです。名盤「バラード」は、手持ちのマウスピースを皆ダメにしてしまい、反応の悪いマウスピースでバラードしか吹けなかった、という逸話も残っています。本当なのでしょうか?
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